ほり小児科

八潮市の小児科、ほり小児科

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〒340-0822 埼玉県八潮市大瀬1-4-3 Yビル(よつば耳鼻科ビル)4階

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院長の紹介

院長 堀 正巳

略歴

昭和47年新潟県立新潟高等学校卒業
昭和55年3月順天堂大学医学部卒業
順天堂大学小児科医局、越谷市立病院
埼玉県立小児医療センター、八潮中央総合病院他を経て
平成7年4月「ほり小児科」開設
現在に至る

資格

日本小児科学会認定 小児科専門医

1.ファミリーヒストリー

今は殆ど知る人はいませんが、大正時代村上市に藤井順三という医師がいました。順三が亡くなり跡を継いだ長男も若くして亡くなり、醫院は閉鎖されました。藤井家のルーツは、越後村上藩の御殿医です。当時の農村では稲穂で目を突いて雑菌が入り、失明する人が多かったそうです。現代なら抗生物質の点眼薬で治療できますが、当時は高価な薬と長期の治療が必要でした。どういう経緯があったのかは分かりませんが、順三は目の治療を無料で行いました。暗い内から患者が並び、遂には醫院の前に市が立つ様になったそうです。その代わり、没後に膨大な借金が残されました。醫院を継いだ長男は無理をして働き、虫垂炎から腹膜炎を起こして亡くなりました。祖母からは、兄が父親の借金返済で亡くなったと何度も聞かされました。でもどういう借金なのか知ったのは私が医師になった後です。

私の祖母ふじは順三の長女です。子どものいない分家の堀家を養女として継ぎました。堀家は廻船問屋を営み、かつては豊かだったそうですが、創業者が30代で亡くなり、更に鉄道との競争に敗れて廻船問屋を廃業しました。祖母が継いだ堀家はかなり窮乏していました。祖母は2人の息子の教育に全力を傾けました。2人共新潟大学の医学部に入学させました。その父も叔父も既に亡くなりました。私と2人の従兄弟が順三の血を引く医師です。

2.順天堂大学の思い出

順天堂大学医学部では大きな出会いがありました。橋本敬祐先生(当時順天堂大学第一病理学教授)と先生が顧問を務める医学生・看護学生からなるボランティアサークルとの出会いです。私は教養課程(習志野市)では1人で障害児のボランティアをしながら、自治会と共同で啓発活動をしていました。専門課程(御茶ノ水)では橋本先生のサークルに入り、1年間代表を務めました。教養課程での活動を支えてくれた総務の平木敬二さんには感謝しています。サークル活動を通じて知り合った、よこいとグループの大槻久子さん、小川静枝さん、秩父学園の安河内先生、一二三学園の和田博夫先生、杉原絹江先生、島田療育園の小林提樹先生。そして同じサークルの仲間達に感謝しています。活動を通じて知り合った子供たち、定期的な家庭訪問を受け入れてくださった親御さんにも感謝します。

3.クリスチャンとして

当時は糸賀一男先生の「福祉の思想」がベストセラーでした。糸賀先生は「びわこ学園」「近江学園」の創設者で「精薄児の父」と言われたクリスチャンの教育者です。小林提樹先生は日赤病院の小児科部長で重症心身障害児施設を創設したクリスチャンの小児科医師です。大槻久子さんは地域で充分なサポートを受けられない障害児と家族の為に尽力されました。地域で障害児者が暮らせる様にするべき、とのノーマリゼイションの考えを示された先駆的なクリスチャンの地域福祉活動家でした。そして顧問の橋本教授は本当に心の温かい方でした。毎年正月には先生の家にサークルメンバー全員が招待され、楽しい時を過ごしました。奥さまは大変だったと思います。そして橋本先生も又クリスチャンでした。
私は12歳で教会につながりました。当時の私は、全てを見守り、全てを知る絶対的な存在―神―を求めていました。その後26歳で教会を離れました。2004年10月の橋本先生の前夜式が教会で行われました。11月再度教会につながりました。

私の尊敬するクリスチャンはやはり特別な人たちです。でも何らかの志があり、それがキリスト教の価値観に合うものであれば、キリスト教にはその人の基盤となり、支えになる力があります。シュバイツアー博士もマザーテレサも信仰がなければ、あれだけの業績は残せなかったでしょう。

WHOの幸福の基準には宗教(キリスト教・イスラム教・仏教・ユダヤ教・ヒンズー教他)に親しめる環境があること、が含まれています。又終末期医療で大きな役割を担うホスピスはキリスト教・仏教が多いです。宗教には人を温かく包み込む要素があります。

そしてこうも思います。私たちはどうしても利己的な思いで他人に接します。自分の為でなく相手の為に愛するのも、恨みのある相手を心から許すのも、人間にとっては困難です。でも神の愛を思うことで、困難のハードルを少し下げられるのではないでしょうか。その結果慰めを得て、本来の自分を取り戻すことができるのではないでしょうか。

4.医院の特徴

心身障害児訓練施設「八潮市のぞみ」の嘱託医を、平成8年の創立以来務めています。書類作成もしています。夜尿症、起立性調節障害、小人症についてもご相談ください。自費のワクチン(ロタ、B型肝炎、水痘、流行性耳下腺炎)は接種を勧めています。インフルエンザワクチンは原則毎シーズン接種するワクチンですので、料金は市内の平均に近い金額にしています。

5.吉川寿子さんを偲んで

(吉川さんの告別式) 脳動脈瘤破裂で救急入院し、翌28日朝召天、享年85歳。
 平成27年8月30日「みくに栄えの園」で吉川寿子さんの告別式が行われました。
 三郷教会の持田浩次牧師が司式をされ、ギター奏者の佐藤豊久さんがアメージンググレースを演奏しました。御親戚からは姪の岸さん、甥のSさん他が出席。入居者・スタッフの方も参列して、吉川さんを偲びました。病棟長の有賀さんは、スライド上映をしながら、春の温泉旅行の様子を説明してくれました。岸さんは、「叔母も満足して亡くなったと思います。」とスタッフに感謝されました。

(吉川さんの略歴)
 昭和5年新橋の増村家で出生。1歳の時母が産褥熱で死亡、(出生した弟も生後数ヶ月で死亡)。父は5歳で病死。姉と共に母方祖母に育てられました。経緯は不明ですが、その後吉川のお婆さんの養女になりました。余りいい関係を作れぬまま、お婆さんも10歳の時に死亡。姉夫婦と共に満州に渡ります。終戦で帰国、当時15歳でした。「たくさんの人が死ぬのを見た。当時のことはあまり思い出したくない。」と語っていました。戦後は調理師免許、次いで准看護師免許を取得。「チャーちゃんは負けず嫌いの頑張り屋さん」と言われていたそうです。老人施設や精神科の施設に准看護師として勤務しました。頸椎を痛め、昭和60年頃退職しましたが、労災とは認定されませんでした。昭和64年から伊豆のアパートで過しました。岸さんや他の親戚の方、私には毎年みかんが届けられました。

(吉川さんの交通事故と「栄えの園」入居)
 平成22年末交通事故に逢い入院。平成23年救急病院の整形外科病棟を退院。別な病院の老人病棟に転院しました。私は見舞いに行き、充分なケアがされていないのを知りました。良い施設に入所させたいと思いました。吉川さんを説得し、後見人のSさんの了承を得ました。平成26年1月松戸市にあるキリスト教のグループホーム「みくに栄えの園」(菊谷利昭施設長)に入所し、私が後見人となりました。「栄えの園」入所後、交通事故で失った歯の治療と白内障の手術を受けました。旅行にも参加しました。平成27年7月25日の納涼祭は私も一緒に楽しみました。

(吉川さんと建瑠と私の関わり)
 私が5歳の長男を妻の実家から引き取ることができたのは、昭和63年5月でした。1年半の間に心身共に傷ついていました。すっかりやせ、気管支喘息発作が頻発していました。
特に大変だった昭和63年、助けてくれたのは吉川さんでした。おばあちゃんの様に接してくれました。建瑠の心の傷を癒やしてもらったことに今も感謝しています。この大変な1年間、建瑠を支えてくれた方が実はもう一人います。中学入学時には心のこもった手紙を頂き、ずっと気にかけていただいたのを知りました。告別式にも時間を割いて、参列されました。
 気管支喘息発作は、私が診察し点滴をして入院。食事介助をし、付き添いベッドで眠りました。7日前後の入院が年に4回程、そんな状態が10歳頃まで続きました。昭和64年に吉川さんは伊豆に転居。「喘息発作がでても大丈夫だから」との吉川さんの言葉に甘えて、建瑠は小学校6年間、夏休みの度に伊豆で過ごしました。高校卒業後アメリカに10年間留学(コネチカット州立大学、同大学院修士課程卒業)しましたが、留学前に吉川さんを訪ねています。彼が真っ直ぐに成長できたのは、吉川さんのおかげです。

(堀建瑠略歴)
 市内の八幡小・八潮中を卒業、聖パウロ学園高校を卒業後渡米。大学・大学院の心理学部を卒業しました。卒業後は大学研究室での研究を希望していました。最終審査に残った大学もありましたが、就職には至りませんでした。平成23年に帰国し、医学部進学を目指して受験勉強。模試等の結果から自信をもって受験したものの合格できませんでした。鈴滎特許総合事務所に正社員として勤務し、弁理士の資格取得を目指して更に勉強していました。
その最中の平成25年12月25日に彼は亡くなりました。
 彼は優秀でした。聖パウロ学園1年では、先生が戯れに提示した(数学科の大学生でもてこずる様な)数学の難問を自力で途中まで解きました。2年時の英語弁論大会(ケネディ大統領就任演説)は2位(1位は帰国子女)でした。大学・大学院も好成績で卒業しました。訃報を聞いた当時の校長の渡辺先生は、「彼は将来歴史に残る仕事をするだろう、と内心期待していました。」と言われました。
 吉川さんは建瑠の告別式には参列していただきました。でも納骨式は不参加でした。その後私が納骨堂に行く時に誘っても、「悲しすぎて、とても行けない。」が返事でした。逢う度に「建瑠ちゃんは本当に優しい子だった。」と言われました。彼は18歳の頃、ひどい仕打ちをした母親や祖母に会っています。その際、妹に配慮して一言も責めていません。

(吉川さんの人生、建瑠の人生)
 建瑠の喘息が頻発していた頃、吉川さんが言いました。「私がもう20年若かったらねー。あ、駄目だ。20年若かったら日本になんかいない。絶対海外で暮らしている。」吉川さんは外国でどんな人生を夢みていたのでしょうか。頚椎を痛めて准看護婦を辞めた後、時に頸がひどく痛み、一人で耐えていたようです。20年間伊豆のアパートでの一人暮らし、孤独を感じることも多かったのではないでしょうか。
 医学部進学を目指していた建瑠に、「医者になって何をしたいのか、どんな医者になりたいのか。」と聞きましたが、明確な返事は無く、内心失望していました。彼の死後、アメリカの友人に「I want to be a doctor like my father.」と話していた、と知りました。彼が医者になっていたら、私よりずっと優秀な良い医者になっていただろう、と思います。これからの人生で、何かを成し遂げたでしょうに。彼はきっと無念だったと思います。
 吉川さんの遺骨は市川霊園、建瑠の遺骨は春日部福音自由教会の納骨堂に納骨されています。吉川さんの棺には、私が建瑠を肩車している写真、建瑠の家族の最近の写真、建瑠と妹の写真(母親は違いますが、本当に仲の良い兄弟です)と手紙を収めました。

(感謝)
 「みくに栄えの園」のスタッフの皆さんに感謝します。
 有賀さん、西村さん、佐藤さん、小林さん、武田さん、玉井さん、プーチさん、大塚さん、横田さん、小野さん、安川さん、島田さん。菊谷利昭施設長と洋平さん。本当にお世話になりました。

(祈り)
 「人間は生まれながら宗教的情熱を秘めている。自分の死を意識するとき、その情熱に従って行動する。」柳田邦夫さんの講演会で聞いた言葉です。そうであれば、かけがえのない大切な人を失った時も、私たちにできるのはひたすら故人を思い、祈ることでしょう。

 天にましますわれらが父よ。私にとって大切な3人の御霊が主の許に召されました。
吉川さんの20年に及ぶ孤独、勉学に励みながら恵まれた才能を生かせなかった建瑠の無念、生まれることすらできなかった(建瑠の姉)優子の哀しみ。夫々の心の痛みを主はよくご存知です。痛みが拭い去られ、安らかな気持ちで天のみ国で過ごすことができます様に。吉川さんのご家族、建瑠の家族、建瑠の妹たちに主が慰めを与えてくださいます様に。そして残された時間の中、私の為すべきことを、どうぞお示しください。

 尊き主イエスキリストのお名前により、お祈りします。アーメン。

スタッフ紹介

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